最優秀賞 
父、故郷に還る 成瀬理子

 

 
父の出自が複雑なことは、子ども心にもうすうす感じていた。 
私の家には、盆暮れ正月、帰省して親類縁者が一堂に会する、という慣習がない。春夏秋冬、家族だけでひっそり過ごす。休み明け、級友のにぎやかな土産話を聞きながら、うちはよそんちとは違うんだなあ、と思っていた。家の中には父の系譜に触れてはならないという空気があった。 
当然ながら、お彼岸にお墓参りという文化もない。父は常々、私に「墓なんかいらないよ。死んだら散骨してくれ」「お前は嫁に行った先で入れてもらえ」と言い捨てていた。冗談なのか本気なのか、私は苦笑いして聞き流してきた。 
それが本気だとわかったのは、母が亡くなったとき。父は私に分骨すると、何の相談もなく、本骨を野山に撒いてしまった。「お父さん、どういうつもり?」父は黙りこくって返答を避けた。 
母を見送って七年目の秋、父は突然この世を去った。あっけない別れだった。あわただしく葬儀を出し、遺骨を前にして改めて気づいた。そうだ、うちにはお墓がないんだ…。 
部屋の隅、小さな母の隣に父を安置し、墓所や納骨堂、散骨の手続などを検索してみたものの、今一つぴんとこない。どれも、これが父の意向に沿っているという確信が持てなかった。父は、本当はどうしたかったのか。今、どこに帰りたがっているのか。父の人生の背景を何一つ知らないことが悔やまれた。四十九日を過ぎても、納骨のめどはまったく立たなかった。 
年が明け、父宛のわずかな賀状に喪中はがきを返すと、父のいとこと名乗る人から連絡があった。聞けば、利根川上流の小さな町に菩提寺があり、その墓に父を入れてあげたいという。思いがけない父のルーツに驚きつつ、とにかく会ってみようと心が動いた。 
その人はやはり、どことなく父に似ていた。お茶を片手に、父は幼くして実父母を亡くしたこと、兄弟姉妹ばらばらに養子に出されたこと、養父母は冷淡で、親族の集まりには出られなかったこと、散骨は娘の負担を軽くしたいという両親の希望だったこと、などを話してくれた。 
私は父の無口の由来を知った。「墓はいらない」と言い続けた胸中、心身に刻まれた肩身の狭さ。娘への思いやり。その中で細々とつないできた故郷との縁を知って嗚咽した。ここなら父は安らげる。「母も一緒に入れてやってもらえませんか」頭を下げる私を押しとどめ、父のいとこは父とよく似た声で快く承諾してくれた。 
晴れた冬の日の朝、父を母とともにお墓の下の土に還した。目の奥に、実父母と兄弟姉妹、そして母が、父を取り囲んで口々に「お帰りなさい。よく頑張ったね」「お帰り。お疲れさま」とねぎらっている光景が浮かんだ。 
お父さん。やっと帰って来られたね。安心して、ゆっくり休んで。 
それから、私にはお墓参りの慣習ができた。季節ごとの花を供えて線香をあげ、手を合わせて心の中で話しかける。そして、「また来るね」。父の安息の地は、私の安息の地にもなっている。 

優秀賞

父のお弁当 三上 友美

「じゃあ行ってくる」 
弁当片手に港に向かう。漁師の父の日課だ。こんな事がもう二十年になる。二歳の時に 
母を亡くして以降、父は毎朝みんなの弁当を作る。職業柄、父の作る弁当は魚がメイン。 
キンキの煮付けやイカナゴのくぎ煮が入ることなんてしょっちゅう。それでも年頃になる 
と手毬オムライスやお花のフルーツサンドに憧れ、父におねだりをした。 
「そんなもの食ったことも作ったこともない」 
父は最初難色を示した。私も私で「煮付けなんてカッコ悪い」とケチをつけた。それで 
も娘に不憫な想いをさせたくなかったのだろう。最後は友達のお母さんにレシピを聞いて 
、何とか弁当を完成させた。夜な夜なサンドウィッチのパンを買いに行ったのも私は知っ 
ている。 
しかし事件は起きた。その日お弁当を食べようとすると担任の先生から呼び出しを受け 
た。 
「お父さんが……」 
見つからない。そう聞いた途端、真っ青になった。どうやら漁船が岩場に衝突し漁師数 
 
名が行方不明になったらしい。確かに父は朝早く出掛けた。だけど「今日は早く帰れる」 
と言った。「帰ったらお前の誕生日を祝おうな」とも言った。それなのに。 
私は弁当をしまうとそのままタクシーに乗り込んだ。漁港に向かうその車内。父の携帯 
は何度かけてもつながらない。つながってくれと願った。生きててくれと祈った。それで 
も荒れ狂う波の姿を見たら心穏やかではいられなかった。三時間後。私の願いも虚しく、 
父は漁港から南東三百メートル沖で発見された。駆けつけた霊安室。そこに寝かされてい 
たのは紛れもなく父だった。 
「父ちゃん」 
私は泣いた。叫んだ。こんなにつらい別れならいっそのこと一緒に天国に行きたいとさ 
え思った。 
だが帰宅後。お昼に食べなかった弁当を開けて驚いた。真っ白いご飯に梅干がひとつ。 
咄嗟に父が自分の弁当と私の弁当を間違えたのだと気づいた。私にはいつも好物ばかりを 
こしらえて自分はこんなもので済ませていたなんて。私はこれまで散々父の弁当にケチを 
つけていた自分が恥ずかしくなった。こんなことなら「おいしかったよ」って毎日言えば 
良かった。「たまには私に作らせて」って言えば良かった。それなのに。 
「父ちゃん、ありがとう」 
泣きながらご飯を口に入れると、たちまち涙でしょっぱくなった。 
あれから命日になるとキンキの煮付けを供える。今年はくぎ煮にも挑戦した。父が遺し 
たレシピのおかげで「父ちゃんの味だ」と大好評。それでも戒名の「大海」を見ると、あ 
の日を思い出し、じんわり胸が熱くなる。 

 

優秀賞
『百世不磨』 大山 薫 

 

「親父に手を合わせる気持ちはない。親父と同じ墓には絶対入りたくない。」 

数年前に母が亡くなり一人で暮らす父は、私に繰り返しこう言うのです。貧しい家庭に育ち自分の夢を叶えられなかったのは祖父のせいだと、父は祖父を憎んでいました。また、母亡きあと自分の死への不安や祖父に対しての憎しみも、自分の入るお墓に向けられているようです。祖父は若いころに奈良県を飛び出し福岡県に流れ着いたそうですが、生い立ちには事情があったようで親族との関りがないまま亡くなりました。そのため、私たちは祖父についての詳しい事情を知らず、先祖のことや先祖のお墓がどこにあるのかも知りませんでした。 

 

もし、祖父のことがわかれば、父が祖父について考え直すきっかけになるかもしれない。そこで、祖父の生い立ちや境遇を調べることにしました。戸籍を取得し、祖父の出生と家族や親族、本籍地を探し出した結果、先祖の墓石を見つけ出すことができました。また、お寺の過去帳から本籍地に私たちの先祖が暮らしていたことと、地元の記録と戸籍謄本から、100年ほど前にはすべての親族が本籍地を離れていたこともわかりました。しかし、菩提寺の檀家の皆さまが100年もの間守ってくださったおかげで、奇跡的に今も先祖の墓石が残っていたのです。さらに、戸籍謄本からは、先祖が家や土地を守るために行った婚姻や家督相続、加えて、祖父の複雑な出生事情も明らかになりました。 

 

こういった事情の中、祖父はたった一人故郷を離れて、福岡県で新しい人生を歩んでいったようです。今まで知らなかった祖父の不遇な生い立ちや境遇がわかり、父の口からは「親父のことは今でも憎いけど、あんな親父にならざるを得なかった辛い幼少期を過ごしたんやろうな。それに、良い親父やなかったけど親父がおったけん自分も生まれて、ひ孫まで繋がっとるんやね。」という言葉が出てくるようになり、先祖に感謝する気持ちが生まれ、祖父への憎しみが薄らいでいくようでした。また、生前の祖父は一度も故郷に戻らなかったため、先祖の墓参りはおろか先祖の墓がどこにあるのかも知らなかったはずだと父に伝えると、父は祖父の代りに先祖の墓に参りたいと言うようになりました。供養する親族もいない状態でお墓が大切に残されていたことは、父の頑なな心を動かしたようでした。残念ながらコロナの心配があり父は行けませんでしたが、私が代わりに菩提寺を訪れました。 

 

私にとっても自分のルーツを知り先祖の故地を訪れたことは大変貴重な経験でした。そして、実際に触れることのできるお墓を守り先祖を供養していくことは、先祖や自分から次の代へと繋がる命を考え、死への不安を受け止める心の支えになると感じました。福岡県と奈良県で離れてはいますが、今後もお墓を守り先祖の供養を続け、自分の子どもへと引き継いで行きたいと思います。次の100年も続くように。 

 

優秀賞 
私のお墓の存在意味 

いわざき こういち

 

 昨春、98歳で父親が老衰でなくなり、早いもので1年半が過ぎようとしている。母親は、15年以上前に亡くなっている。いつまでも親は生きているものと思い、それまで私は生活してきたのだ。しかし、私が年齢を重ねていけば、親も老いていくのは当然の摂理だが、そんなことは考えずに生きてきた。まさに後悔先に立たずの心境に今陥っている。 

6年前に父親が大腿骨を骨折。そこから介護の生活が始まる。ふつうであれば、90歳を過ぎての骨折は、ベッドに寝たきりの生活を強いられるのだろうが、リハビリ後、家の中を車いすで自在に操り、最低限の身の回りのことはでき、それ以外のことは私が仕事と両立しながら介護を続けてきた。母親の墓参りは、私が休日の時に年3回ほどであるが、車椅子で連れて行った。無口な父親は、母親の墓前で何を思い佇んでいたのだろうか。母親も長年、病気で入退院を繰り返し、その面倒をずっと父親が見てきた。亡くなった直後は、寂しさもあって母の遺骨を手元に置いていたのだ。納骨してからは、父と母にしかわからない対話の場所であったに違いない。それは苦労を共にしてきた夫婦での思いである。しかし、その父親も今は母と同じお墓に眠る。この場所で生前、父親が車いすで線香を手向けていた姿を思い、時の流れを私は再認識できるのだ。私のことを案じているのか、それとも安心しているのか、夢に表れることは一度もない。 

20年以上前に、母がそろそろお墓を立てたいという話を定年退職後の父に話したところ、烈火のごとく怒ったそうだ。「お前は俺が早く亡くなればいいと思ってるのか!」と灰皿を投げつけられたと私に話したことがあった。もちろん母にはそんなつもりはない。それを後日、悲しそうな表情で私に話したことを覚えている。それもあり、母が亡くなってもお墓の話を持ち出せなかった。しかし、数年後に「お墓を建てよう」と言い出しだのは父の方からであった。そして、お墓ができ納骨してから父は「これでお母さんは天国で喜んでいるだろう」と車椅子の上で笑顔で話したのは思いががけなかった。父もきっと、あの時に母に強く当たったことを後悔してたのであろう。できれば、母が存命中に安心させてあげたかった。亡くなった後に自分たちが永眠できる墓がないことを心配してたのだから。 

 私は未だに親離れができない。なにしろ毎週日曜日に墓参りに行っているのだ。その週の出来事を報告し、お墓を掃除して帰る。周辺の墓と比べると一番きれいな墓である。自慢してください、息子は毎週、私たちに会いに来てくれるって!いろいろ迷惑をかけたにも関わらず…生きているときに、もっと話をしておけばよかったと時間よ戻ってきてほしい思いが、亡くなってから募ってくる。毎週墓参りに行っているなど、他人には話せないが、今でもあなたたちに心から会いたくて仕方ないのだ。コロナ禍で家族葬になったが、あなたの息子に生まれてきたことを誇りに思い、私は生きていく。