「忙しい涙」 

 
 私は毎年甲子園の時期になると、あの7月を思い出します。それは泣いたり笑ったり何とも忙しい7月でした。 
 亡くなった夫は長嶋茂雄の大ファンで、彼の夢は息子二人をプロ野球選手にすること。 
自分の子供のころの夢を子供に託すなんて、そんな押し付けがましいのは良くないのではと思いつつ、子供達の試合ビデオを何度も繰り返して観ては喜んでいる夫を嫌ではありませんでした。そんな父親を見て「もっと頑張ってパパを喜ばせてあげよう」と子供たちもひたすら野球に取り組んでいました。 
 次男が六年生の時、夫に癌が見つかり闘病生活が始まりました。繰り返しの入退院や痛みとの戦いの中で、子供達の野球の応援だけが彼の楽しみであり生きる目的になっていました。 
 次男が中学三年の時、次男のチームは千葉県大会を勝ち抜き全国大会への切符を手にしました。試合会場は大阪。いつもは病院に外泊許可をもらって応援にいくのですが、この時は遠方過ぎて緊急時のケアができないと許可が下りませんでした。 
「どうしてもというのなら一度退院して、応援が終わったら再度入院の申込をしてもらうしかないんです。その時は病床が空いているか分かりませんが。」 
全国から患者が集まる大学病院、入院待ちはいつでも長蛇の列。夫は何とも言えない表情で話を聞き終わった後、 
「どうする・・・今回は諦めるか。」 
と苦笑いを浮かべて言いました。 
「上等じゃん!退院して応援に行こう!私も観たいよ、全国大会の晴れ舞台!」 
夫は既に車椅子で排泄も自分では不可能だった為、私へのサポートの負担を考慮したのがすぐに分かりました。 
 そんな出来事もあった野球応援闘病生活の終止符は次男が高校一年の7月でした。 
「あの世に行ったら病気も動かない足もリセットされるよな、だったら今年の甲子園予選はみんなの球場を回って間近で応援できるな」薄れる意識の中でそう言った彼は、最後まで野球のボールを握ったまま静かに息を引き取りました。まさに大会予選の開会式も終わりタイミングよく応援に出かけて行きました。 
2週間後の7月の終わり、次男の高校は初の甲子園出場を果たしました。私の悲しみの涙は喜びの涙に変わり、この日を夢見て待ち望んでいたあの人がここにいない事を寂しく思い、また悲しみの涙を流しました。 
 数日後、決勝打を打ったチームメイトがホームランボールを持って焼香にきました。 
「あの時、外野フライだと思った球が急にググっと伸びてスタンドに入ったんです。平野さんが押し込んでくれた!と思いました。あそこに平野さんはいましたよ。だからこのボールは平野さんの仏前に備えさせて下さい。」私の涙は再び喜びの涙に・・・やれやれ涙も色々忙しい。 
8月、私は初めて新聞というものに載りました。「東京新聞」の甲子園特集欄に記載された写真の私は、胸に夫の遺影を抱き、汗まみれの高校球児と甲子園に輝く外野の芝を眩しそうに見つめていました。