最優秀賞
『月命日にラブソングを』
夫はアマチュアのビッグバンドのリーダーだった。スイングジャズ、ラテン、デキシーランドジャズ。
夫が愛した音楽は陽気で楽しい音楽だった。『A列車で行こう』『マンボNo.5』『賢者の行進』
夫は今年一月、五十二歳で死んだ。
彼のバンドと私は、一月に彼と約束した葬儀のライブと予定していた二月と四月のステージ。それら全てを泣きながら終えた。
私は、司会進行が仕事。夫は音楽プロデュース。お互いステージが生き甲斐だった。去年8月。癌が転移した夫と事実婚。
結婚ライブ後、すぐに入退院を繰り返す。十一月から一緒に暮らし二ヶ月。新婚生活を私は看護休暇で。だから二十四時間一緒。
車椅子で退院した夫は、「ご飯は一緒に作って一緒に食べたい」とホットプレート料理が大好きだった。
ずっとずっと結婚したかった私達。夫婦として同じ指輪をはめて、毎日そばにいるだけで幸せだった。
突然の癌とその転移であっという間に消えてしまった夫。遺された、私とテナーサックスとバンジョーと楽譜たち。
ステージを終えた、四月。納骨。お墓の前で私はサックスを持ち、夫に『ブラジル』という曲を吹いた。
楽譜も読めない私。四十八歳で生まれて初めて楽器と向き合った。
お墓に夫の骨をいれる。私も一緒に入りたいぐらいの愛おしさ。
その思いを、サックスに込める。下手でも言葉より伝わる思いがある気がした。泣きながら吹く。二人だけの会話をしている気分だった。
それから、毎月七日。月命日に楽器を連れて、夫に会いに行く。
お墓に行くまでに猛練習。なるべく上手にならないと、夫に聞かせられない。霊園の方は「短時間なら」とサックスを許してくれた。
でも、音は大きい。他の方々の事を考え、コソコソしてしまう。途中から、バンジョーにした。
実は、夫のイタズラなのか、あるデキシーランドジャズのライブで有名なバンジョーのプレイヤーの方と知り合い、教えてもらえる事になったのだ。
さらに、このデキシーランドジャズ。もともと、ニューオーリンズでお葬式に演奏されていた歴史がある。歌詞は『愛しい亡き人』を明るく歌う。
私が初めて練習した『ジャンバラヤ』は、こんな歌詞だ。
「君は行かなければならない。川の下流の墓地へ。
君の最愛の人をおいて。
下流には、みんなが集まる。 ごちそうを用意して。
親戚も集まって、大騒ぎだ。
さあ、行こう。楽しく騒ぐんだ。」
いろいろな歌詞がある。ネイティブのスラングも入っているから、解釈もいろいろだ。私は、こう解釈した。
お墓参りは、毎月七日。月命日。この日は二人のデートだ。
音楽で対話をする泣き笑いの時間。夫の遺してくれたものが 相変わらず私を幸せにしてくれる。
音楽という言語で語りあう。私の中に根付く夫の笑顔、声、まなざし。
『純子、また上手になったねぇ。すごいねぇ。』
まだまだ寂し悲しい毎日。
来月七日まで、また。頑張ってくるよ。
【氏名】 廣瀬純子(ひろせじゅんこ)
優秀賞
赤いワンピース(あかいわんぴーす)
「隣が墓地とか、絶対嫌なんやけど~」。そう言って隣町の中学校に通っている友達は笑った。そんなこと、誰だってそうだ。生徒の声とチャイムが鳴り響く和気あいあいとした中学校の隣に、大量の墓が殺伐と立っている墓地が怖かった。あの日までは。
委員会でいつもより下校時間が遅くなった私は、足早で門をでた。真っ暗で街灯も少ない田舎道。私はできる限り隣の墓地を見ないように一人で歩いていた。いつもは止まらずに通ることができる横断歩道の信号。その日は真っ赤に光っていた。「シャランシャラン」。突然、聞き覚えのない音が辺りに響いた。「お嬢ちゃん、それ取ってくれへん?」。墓地から聞こえる声に、ドキッとした。足元に落ちている三つの鈴が束ねられたキーホルダーが目に入った。恐る恐る拾って後ろを向くと、真っ赤なワンピースを着た老婆が目の前に立っていた。私はぎょっとして、勢いよく尻もちをついた。そんな私を見て老婆は嬉しそうに笑った。「幽霊じゃないんだから。まだ死んでないんだからね」。そう言って、私に手を差し伸べた。「ちょうど良かった。このバケツあっちまで運んでくれないかしら?」。かかとの高い靴をコツコツと鳴らしながら、墓地に向かっていった。私は、たっぷりの水が入ったバケツを両手に抱えて、老婆のあとを追った。大量の墓に目をくれることもなく、どんどん中に入っていく。
突如、目の前には大きく立派な墓が現れた。ボディは綺麗に手入れされているようだった。老婆は私が運んだバケツから水をくみ取り、優しそうな愛のある表情で丁寧に水をかけていった。赤い秋の夕日が老婆に差し込み、彼女の真っ赤なワンピースはその場の彩度をさらに上げていた。唖然と見惚れてしまっていた私に、老婆は深々と礼を言って、近所の喫茶店に連れていってくれた。
「なんでそんな格好なの?」「お墓参りって、暗いところじゃないの?」と、ぶっきらぼうな私はメロンソーダ片手に尋ねた。そんな私を叱ることなく、優しい口調で老婆は言った。「夫が買ってくれたものなの。お気に入りなのよ」。嬉しそうに微笑みながら、亡き夫のことをたくさん話してくれた。まるで友人の恋バナを聞いているような、鮮明なひとつひとつの思い出たちに、老婆は恋をしていた。「お墓は、みんな大好きなひとに会いにきているのよ。どんな服を着て、どんなことを話してもいいの。暗くなんてないわ、私にとっては一番幸せな時間だもの」。
高校二年生の春。墓場で、真っ赤なワンピースを抱いて泣いている女性を見たとき、私は人生で初めて自分からお墓参りに行った。「おばあちゃん、メロンソーダ値上がりしてましたよ」。また老婆と話すことができて嬉しかった。しかし、もう話せないと思うと悲しくて涙が止まらなかった。私は二つの鈴を置いて、墓地を去った。
古府 叶光(ふるこ かなみ)
優秀賞
「すっごく楽しくて幸せだった!!」(
「すっごく楽しくて幸せだった!!」次におばあちゃんに会える時には、一番のしわくちゃの顔と笑顔で胸を張って一言そう伝える。
いつもたくさんの友達に囲まれて旅行やカラオケへ出かけ、老後を元気にエンジョイしていたおばあちゃん。六年前の少し肌寒い日の夜、いつものように暖かい毛布に包まった
けれど、夜明けと共に暖かいはずの毛布が冷めていたそう。旅立つには早すぎたけれど、おばあちゃんは大好きな家で静かに旅立ったことを幸せに思っていると私は思う。
急すぎる別れに六年経った今でも、おばあちゃんが家にいないことを「また遊びに出かけたのか」と思いふと電話をかけてしまいそうになり、もう一度おばあちゃんに会いたくなってしまう。
おばあちゃんとの思い出は全部くだらなくて何気ない話で笑った時間で溢れていて、思い出す度に顔が緩んでしまう。シナモン入りのブラックコーヒーにチェダチーズを合わせて飲むと一番美味しいんだとか、ゴーヤーの苦味を徹底的に取る方法とか、中身汁の衝撃的な作り方とか。あと、お母さんとお父さんに内緒でスーパーに一緒に行って普段買ってもらえないようなお菓子をたくさん買ってもらった事とか、とっても楽しい思い出。
「おばあちゃん、第二の家の住み心地はどう? 急なお引越しだったから伝えなきゃいけないこと沢山あるよ。顔を見て伝えるのは照れ臭くて言えなかったことも、今は伝えられるよ。」
旅立った家族もみんな揃って伝え合えることができる唯一の場所が、「第二の家」であるお墓。今を生きている人、すでに旅立った人、その先で出会い家族になった人もみんな笑顔で、年に一度の家族団欒をする場所になっている。
中山鈴花(なかやまりんか)
優秀賞
「そこにいます」
三十年前、一本の電話が寝静まった我が家の静寂を切り裂いた。一抹の不安を覚えながら寝ぼけ眼で受話器を取った。年始以来久々に聞く母の声が聞こえてきた。時計の針は2という数字を指していた。
私は大学への進学を機に生まれ故郷である静岡を離れていた。その後東京で就職。経験年数も増え、それなりの肩書きを頂き忙しい日々を送っていた。
結婚もし、妻と娘・息子と四人暮らしをしていた。
やりがいのある仕事、私を支えてくれる家族。慎ましながら幸せで充実した日々を送っていた。
その電話は土曜日の夜だった。翌日は幼稚園の運動会。娘はその日を指折り数えて待っていた。私も娘のおんぶ競争が有るとかで、その晩我が家は運動会の話で持ちきりだった。
興奮する娘をやっと寝かしつけ、床についたのは十二時近かった。
そして二時の電話。この電話が私の安定していた人生を切り裂いた。
母はこう言った。「お父さんの心臓が動いてないよ。とりあえずまた電話する。」
受話器を置くと再び布団に潜り込んだ。眠れるはずがない…。
父は地元で事業を営んでおり将来はその事業を継ぐように言われていた。就職先も父の事業に関連する職種を選んだ。
ただ父はまだ五十八歳。年末に帰省した時は孫を嬉しそうにだっこしながら「毎日ゴルフしたいから早く戻ってこい。」とか言っていた。そこには「まだまだ先の話だろ」と笑い飛ばす私がいた。
あれから五ヶ月。父の身に一体何が…。
悶々とする私。そして長い、本当に長い1時間が過ぎた。再び電話。
そこに聞こえてきたのはなぜかちょっと明るい母の声。そして一言「やっぱ死んじゃった」心筋梗塞で突然倒れ、手の施しようがなかったらしい。
家族をたたき起こし、真夜中の道を一路静岡に向かった。
一台もすれ違わない道路がやけに眩しかった。
娘は泣いていた。おじいちゃんが死んじゃったからではない。既に当日となっていた運動会に出られない…。泣き止まないうちに泣き疲れて寝てしまった。
あれから時が流れた。今私は父の事業を継いで三十年目を迎えている。
色々な事があった。本当に色々な事があった。
人は言う。完成された事業を継いだんだから楽だろう。
当然仕事の引き継ぎは無い。従業員との面識もなかった。楽なはずがない。
「助けてくれ」何度お墓を訪ねたことか。
そして父はそこにいた。間違いなくそこにいた。そして私を見守ってくれていた。
ただし、何も言わない。しかし、まさに「見て」「護って」くれる父がそこにいた。
お墓に手を合わせる。それだけで私は救われた。今、そのお墓には私の母も眠っている。
ここまで私を護ってくれた二人。そして、これからも見守ってくれるであろう二人。
将来は私や妻もその仲間入りをするだろう。
そんなことを思いながら、妻、娘、息子とともにお墓参りは欠かさない。
亡き人にお礼を込めて。今までも、そしてこれからも。ずっと…。ずっと…。
稲葉 孝(いなば たかし)